考えず、感じる
篠原紙工は通常の本屋さんで見かけるような本の製本を手がける機会はあまりないのですが、この度、社内メンバーが装丁デザインを担当し、制作も篠原紙工を中心として作った小説集が完成しました。
これを機に、私は久しぶりに小説を手にとってみました。
芝木好子 小説集「新しい日々」 昭和の時代背景で全て女性が主人公の短編小説集です。私は休暇を利用し、身体も心もゆっくりさせながら読もうと思ったのですが、小説の内容は女性であるが故の苦悩、その当時なら秘密にしなければ社会で生きていけないであろう出来事を抱えた女性など、じんわりと重さがある物語が多いように感じ、1編を読み終えると、しばらくその余韻が残り、次の話はまた今度に…。そんな具合で少しづつ読みました。
何かしらの本は私の手元にいつもありますが、その内容は組織づくりや心理、思考に関する本ばかり。得た情報を自分なりに咀嚼し、日常生活で実践し、修正、ここ数年の私の読書はその繰り返しでした。自分も含め、人間、私たちの心はとても興味深く面白いのですが、考えれば考えるほど正解がなく、途方にくれるどころか、絶望と思う時もありました。働く意味、会社にとっても、そこで仕事をする人間にとっても心地よい環境とはどういうことなのか。そんなことを中心に考えて生きているものだから、誰かの書いた物語に浸るよりも自分の現実の方が厳しくも、ある種のチャレンジ精神、面白さは見出せていて、文章から空想の世界に浸る余裕を作ろうとしてなかったように思います。
久々の小説は読むことに集中力が必要で、文章からうまく状況が想像できず、小説を読んだり、映画を観ることで養われる想像力が自分の中で崩壊していると思うと、なんだか悲しくもなり、これはイカン…と改めて現実を直視せざる終えず。振り返ると映画もテレビも見るのはもっぱらドキュメント系のものが多く、とにかく考えることから逃げないように、考えることに向き合うためにエネルギーを費やしていたのかもしれません。
最後まで読めるだろうか…不安を抱えながらも読み進めていくうちに、ひとりで映画のストーリーを楽しむ性分だった頃の自分を思い出しました。懐かしい感覚。自分なりの想像力は蘇る感覚はありましたが、幾分自分も人生経験を重ねているせいなのか、その小説の中で起こる出来事や人物に感情移入し、ため息をついたり、頭が熱くなったりと読み進めるのは私にとってなかなか大変なことでした。
何年ぶりかに小説を読むことで「感じる」という感覚を思い出した気がします。言葉にはできない感覚、きっと言葉にする必要もないぼんやりとした何か。
「考える」と「感じる」両方大事なのでしょうが、どちらかに偏り過ぎてもいけない。感じることが先で、考える作業があと。考えることが先ならば、考えたことをどう感じるか。どちらにせよ思考は時に感覚の邪魔をしてしまうということが腹の底から分かった気がします。
感じること、なんとなく、なんでかわからないけど…そういう曖昧なことはそれだけだと会社や社会ではなかなか受け入れられない。考えてない人に思われてしまうのも無理はないですよね。でも自分の中ではそういう曖昧な感覚こそ大事にしないと、心豊かな人間にはなれない。そう思うと相手がなにを考えているかと想像すると同時に、どんなことを感じているかを想像することも大切かも。
社会で自分がどう思われるかはさておき、まずは自分の感覚がどんなだか、そこからが何よりもの根源、スタート地点なのでは。「Don’t think, feel 」(考えるな、感じろ) ふと、ブルース・リーの言葉が来ました。まさに。